ベンチャー企業で取締役に就任、自分1人の力よりもチームの力でビジョンを実現。

日本に留学したきっかけと、留学時代の生活について教えてください。

私は、中国の内モンゴル出身の4人兄弟です。姉と兄、そして双子の兄がいて私は末っ子の4番目です。

兄が日本に留学をしていた影響で、学生の頃から日本の大学に留学をすることが目標の1つでした。中国では、日本で言う高専(高等専門学校)のような学校を卒業後、双子の兄と一緒に、香港に近い広州にある三洋電機の子会社で働くことになりました。当時18歳で、これまで家族旅行でも遠くに行った事がなかったのに、双子の兄と2人で内モンゴルから北京へ出て、さらに2000キロ以上離れた広州まで渡りました。

中国の広州にある三洋電機の子会社では、レジスターやファックス、スマホなどの通信関係の製品を扱っている工場で、私は、品質管理を担当しました。完成した製品が正常に動くかどうかをチェックし、出荷を許可するという仕事で、2年後には現場リーダーとなり、最後はマネージャーになりました。途中、部署異動などもあったのですが、真面目にコツコツと仕事をしている姿をみた他部署の上司が、私の上司と交渉をしたようで、部署異動と昇進をすることができました。

仕事においては、謙虚にコツコツとやることを心掛けており、「謙虚」は、私の家族である董家の家訓の1つです。両親からおしえられた家訓は、A4サイズの用紙いっぱいに言葉が書かれており、今でも自宅の冷蔵庫に貼ってあるのですが、幼い頃から一番印象に残っており、実践しているのが「謙虚」です。

 

中国の三洋電機で働いている間、日本留学の目標を達成すべく、双子の兄と一緒に夜間の日本語の学校に通いました。20:00~22:00の授業を週に3~4日のペースで2年近く、仕事が終わってから自転車でせっせと通っていました。

日本語を学ぶ理由の1つは留学ですが、もう1つは役職があがれば上がるほど、仕事の中で日本語が必要になったからです。三洋電機は日本の会社ですので、工場は中国にあっても、生産ラインを管理するシステムは日本のものを使っているのでシステムは日本語ですし、上司も日本人でした。当時は、今のようにスマホで簡単に通訳・翻訳できる便利なツールはありませんでしたので、日本人上司には通訳はついていたものの、やはり日本語で直接コミュニケーションがとれる状態が理想でした。仕事中は辞書を片手に日本語を手帳にメモをしながら、実践的な日本語を学び、夜間の日本語学校では机上で日本語を学びながら日本語力を高めていきました。

三洋電機に勤めてから3年後に、双子の兄がひとあし先に日本に留学をしました。私はその1年後に三洋電機を退職し、日本留学を果たしました。来日してから東京の日本語学校に通い、青山学院大学に入学をしました。

青山学院大学を選んだ理由は、双子の兄が受験したけれども不合格で入れなかった大学だからです。兄が不合格だったので、私がリベンジをするつもりで受験をし、合格、無事に入学することができました。また「ビジネスの基本を押さえたい」という気持ちから経済学部を選択しました。留学する前は、中国の三洋電機で勤務していた経験を活かし、日本でも三洋電機などのメーカーに入社したいと考えていましたが、ちょうどこの頃、日本の電機メーカーが業績不振に陥ってきた時期でしたので、理系に進むよりも、就職活動の時の選択肢が広げられるように、文系学科を専攻しました。

 

学生時代は、様々なアルバイトに挑戦しました。中華料理屋さんのホール、パン屋さん、厨房の清掃、カプセルホテルの受付などです。なかでもカプセルホテルの受付は、比較的ひまな職場でしたので、日本人の同僚に日本語の宿題をみてもらったり、同僚やお客様と雑談をするなかで日本語の会話の練習ができたりと、私にとっては日本語の勉強ができる良いアルバイト先でした。

日本での就職活動や就職後の仕事について教えてください。

就職活動については、卒業の半年前から始めました。それまでは、中国人社長がやっていたECサイトを運営している会社でインターンをやっていたので、そのまま就職する予定でしたが、「これは本当に自分のやりたいことか?」と自問、「自分にどのような可能性があるのか、就職活動にチャレンジにしてみよう」と思い立ちました。

新卒向けの就職情報サイトの『マイナビ』『リクナビ』に登録をし、メーカー系、コンサルティング系、金融・不動産系など面白そうな会社を選んで説明会に参加をしてみました。いくつか説明会に参加をした会社の1社が、私が就職をした金融系企業になりますが、金融系だけに財力があり規模も大きく、社内ベンチャー支援制度があるという点に魅力を感じました。実際にその会社は、グループ会社が数十社あり上場をしている会社もありました。「この会社であれば、様々なことにチャレンジができ、自分自身も成長ができそうだ」と感じ、エントリー、無事に内定をもらい就職をしました。

 

私と同じ時期に新卒入社をした同期が30名おり、そのうち外国人が私を含めて5名いました。中国、韓国、アフリカ、イギリスなどの出身者の外国人社員がいたと思います。その会社は海外関連の事業はやっていませんでしたので、新卒採用枠で日本人と同じように外国人留学生を採用するという点においては、先進的な企業だったと思います。

入社後は、家賃保証サービス事業をやっている子会社に営業として配属をされました。新人は、始業の1時間前に出社をし、大量に届いたファックスを各部署に仕分けて届けるという仕事がありました。私は営業職でしたので、営業の商談ロープレはみっちりやらされました。

はじめは「外国人である自分が、日本人の経営者を相手に営業ができるだろうか」という不安もありましたが、この会社は日本人だろうが外国人だろうが関係なく厳しく指導をされる社風で、外国人だからといって差別や特別扱いを受けることはありませんでした。

家賃保証サービスというのは、賃貸で部屋を借りる際、保証人をつけることができない入居者に対して会社が代わりに保証人となる、というサービスになりますが、当時は日本人の入居者だけをサービスの対象としていました。外国人としてのアドバンテージがまったくない環境においても、外国人社員が営業としてトップの成績をとり、外国人管理職もいましたので、国籍は成績・評価には全く関係がない「完全実力主義」の会社でしたね。

 

金融業界特有のスパルタで体育会系の社風は今でも忘れられません。他部署の人は、新規の営業電話を1日200件コールすることがノルマで、電話の受話器をガムテープで手にまきつけて電話をしていました。受話器の接続部分を抜いて、受話器を手に巻き付けたまま、トイレに行っているのを見たことがあります。また、親会社の社長が、全グループ会社の社員向けにメッセージを伝える機会があるのですが、営業社員に対して発破をかける際の罵声は聞くに堪えませんでした。「こういう社風は自分に合わないな…」と思いながらも、営業としては次第に成果がでるようになりました。

外国人だからこそ入手できる、外国人向けのフリーペーパーに掲載してある不動産会社をかたっぱしからアプローチをしました。営業先には、定期的に顔を出してお客様との接点を増やし、お客様と直接コミュニケーションをとるようにすることで、信頼関係が構築できるようになりました。

オンライン時代の今となっては、非効率だと言われてしまいそうですが、当時は「お客様の店舗に直接訪問をする」という足で稼ぐ営業にこだわりました。お客様から連絡があれば、土日も構わず出向くようにしましたし、自社の売上にはならないけれども、外国人入居者との通訳が必要とあれば、買って出ました。このような地道な営業活動の成果もあって、社内で営業成果を表彰されました。

 

この会社では、営業として成績が残せなかった人は、債権管理などの部署に異動させられてしまうのですが、同期30名のうち1年後に営業として残っていたのは私だけでした。営業の成果に対してはプレッシャーも大きく、厳しい会社ではありましたが、お客様から「董さんが担当で良かった」「董さんに任せてよかった」と言ってもらえる事が励みになり、続けることができました。入社して約1年後、世界規模の金融危機リーマンショックが発生しました。リーマンショックの影響を受けた親会社は債権者に一括返済を求める必要が発生し、私も親会社に駆り出され、書類配布などの業務を手伝いましたが、親会社は資金が続かず破産手続きにはいり、私もこれを機に退職をしました。

転職をしてからのこと、取締役に就任するまでの事について教えてください。

転職活動は特にしておらず、双子の兄の紹介で現在の外国人向け家賃保証サービス会社に入社をしました。

双子の兄は、不動産会社の店舗責任者をやっており、取引先である現在の会社の社長に「弟が転職活動をしているのですが、紹介しましょうか?」と声をかけてくれたことがきかっけで、面接をすることになりました。社長に会う前に、会社のホームページや社長ブログなどを読み、日本で部屋探しや保証人探しに苦労している外国人のために家賃保証サービスをたちあげたということを知りました。そして、社長のブログからは”外国人が日本に来てよかった”と思ってもらえるサービスを形にしていくという、並々ならぬ情熱が伝わってきました。

 

前職では、日本人の家賃保証サービスがメインで、外国人の家賃保証を受けることは、ほとんどありませんでしたが、振り返ってみれば、私自身も部屋探しで苦労していたことを思い出しました。

大学進学の際、大学周辺の不動産会社をかたっぱしから回り、部屋を探し始めましたが、日本人の連帯保証人がいないことを理由にすべて断られてしまいました。当時、外国人入居者の連帯保証人は、日本に住んでいる両親ではない限り審査が通りませんでした。両親以外に兄弟でもなれるケースがありますが、不動産会社のルールでは原則、安定した収入がある日本国籍の方を求められるケースが多い状況です。私の場合、2人の兄が日本にいましたが、両親は中国にいたため、日本国籍の連帯保証人をつけることを求められました。

やむを得ず、大学の窓口に相談したところ、大学の関係者が保証人になってもらえることになり、部屋を貸してもらえることになりました。ただ、その後、外国人留学生が増え始めると、大学関係者が連帯保証人になることは禁止になってしまったそうで、留学生の後輩たちは、部屋探しに苦労をしていました。そのような原体験がありましたので、外国人向けの家賃保証サービスは、今もこれからも必要とされるサービスで、このサービスによって救われる外国人が沢山いるだろうと思いました。

 

面接当日は、社長と役員と私の3人で話をしました。社長はブログを読んだときに受けた印象どおりで、明確なビジョンと情熱がヒシヒシと伝わってきました。私はその想いに共感し、入社を決めました。当時はまだ20名ぐらいの組織でしたが、知らない業界ではありませんでしたので、不安はありませんでした。

 

入社後は、債権管理の仕事を担当しました。前職では、”営業で成果を出せない人が債権管理に飛ばされる”というイメージが強かったので、一番やりたくない仕事でした。ただ、担当役員に「業界経験者として、業務の改善点を20個出して欲しい」と言われ、実際に20個以上の改善提案を出したところ、1つ1つ「これはすぐに改善しよう」「これは、〇〇さんにお願いしよう」「これは、資金力に関わってくるから今は難しいけど、将来的にやっていこう」などのフィードバックがあり、自分の意見がすぐに反映されるスピード感と上司からの信頼感にやりがいを感じました。債権管理チームには約3年所属しており、実務をやりながら業務改善を行い、理想的な状態にまでもっていきました。入社時は2名チームだったのが、3年後には十数人規模のチームになっていました。

 

ちょうどこの頃、私が慕っていた担当役員が退任をしたこともあり、私自身も今後のキャリアについて考えるようになりました。

社長に相談したところ「環境を変えて仕事をしてみよう」ということになり、賃貸チームに異動をすることになりました。その際、社長に言われたことで衝撃を受けたことが「これからは、董さんのような仕事ができる人を、董さん自身が育てていかないといけない」と言われたことでした。社長に言わせると、私は1人で5人分の仕事をしていた様で、100~200名単位のお客様の対応であれば、お客様情報が頭の中に入っていたので1人で対応をすることができました。他の人に仕事を頼んだり、他の人に仕事のやり方を教えたりするのは面倒で、自分がすべてやってしまった方が早いし楽だったからです。

ただ、社長から「いま以上にお客様が増え千人、1万人規模になったときに、今の仕事のやり方では成り立たない」と言われ、自分の仕事のノウハウをメンバーに伝えていき、チームで仕事をしていく・チーム全体で目標を達成していく、というマインドに変わりました。社長からのこのメッセージは、自分の中で考え方を変える大きな転換点でした。

 

とはいえ、頭ではわかってはいるものの、いきなり行動が変えられるというほど簡単なことではありませんでしたので、戸惑いました。実際にやってみると、それぞれ相手にも意思があり、価値観も違い、教えたことがすぐにできるようになるわけではありません。その中で工夫をしたことが、チームメンバーとはしっかりと丁寧に、根気よくコミュニケーションをとることを心掛けました。仕事をお願いする相手には、仕事の背景をふくめ、わかりやすく丁寧に説明をしました。丁寧に説明をしようとすると、つい話が長くなって「話が長い」と言われてしまうこともありますが、私自身が、仕事の背景を理解したうえで仕事を進める方が、納得感があるからです。また、仕事を任された側にしても、背景や主旨がわかっていれば、イレギュラーな事が発生したときに適切な判断ができ、スムーズだと思うからです。

 

賃貸チームの傍らで入居者の困った事やわからない事を解決する「生活サポート」を担当するようになり、2014年に正式に生活サポートという部署を立ち上げました。その後も、どんどん組織が大きくなり、2016年に執行役員に、2018年に取締役に就任をしました。ベンチャー企業ということもあり、会社としては不足しているものも課題も多く、苦労したことも多かったですが、ここまで頑張れた理由は、シンプルに社長を信じていたことと、自分がやりたい事と会社のビジョンの目指す方向が一緒で、共感できていたからだと思います。そういった事もあり、最近は、会社の採用活動で面接官になることがありますが、面接の際は、「会社のビジョンにどれだけ共感をしているか」を重視するようにしています。

 

取締役に就任する際、社長から「長年一緒に仕事をしてきて董さんを信頼しているし、董さんがやりたいことと会社が目指すことは一緒なので、取締役になってこれからも一緒にアジアを代表する会社をつくって行って欲しい」と言われた事を覚えています。純粋にうれしかったですし、期待こたえていきたいと思いました。現在は、5の部署・チームを統括する担当で、100名強の部下がいます。これからも「謙虚さ」を忘れずに、自分1人の力よりもチームの力で、チームの力よりも社員全員の力を合わせて、目標を達成し、会社のビジョンである「外国人が日本に来てよかったをカタチに。」を実現させていきたいと思います

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