私は、まだ計画経済が色濃く残る時代の中国で生まれ育ちました。当時は国が経済を動かしていたので、一般の国民が経営やマーケティングなどの仕事に就くことはありませんでした。そのため、学校も技術職に関する学部が大半を占めており、高校は8クラスあるうちの7クラスが理系で、1クラスのみが文系。大学も9割が理系でした。私は経営に興味がありましたが、当時は勉強するチャンスも、そういった仕事につくチャンスもゼロだったので、大学ではエンジニアになるための勉強をしました。
大学卒業後の就職先も国が決めます。私が国から任されたのは、病院の電子機械を管理する仕事でした。当時は、国民全員が公務員のような感じでしたね。私の年代が計画経済の最後の時代だったと思います。それ以降の市場経済にうつった世代は自分で職業を決められるようになりました。
来日の直接的なきっかけは、病院でエンジニアとして働いていた時に親戚から奨学金制度で日本に留学ができるという話を聞いたことです。親には「行く必要はない」とかなり反対されましたが、私は留学する決意をします。
留学を決めた最大の理由は、とにかく一度海外に行ってみたかったからです。当時の中国で海外に行けるのはお金持ちだけであり、まだ自由に海外旅行を楽しめる時代ではありませんでした。自分で留学したい国を選べなかったので、行けるならどこでもよかった。とはいえ、日本への興味はありました。すでに日本の文化や文学などの情報は中国にも入ってきており、当時は村上春樹の小説が流行っていました。
もう一つ、留学をしてビジネスに関する勉強がしたいという気持ちが強くありました。なぜか私は小学生の頃から株やビジネスに興味がある子どもで、よく金融関連のラジオを聴いていました。それを知っている叔父から、「どの株が買いだ?この株は今売ってもいいか?」などと聞かれ、子どもながらにアドバイスしたことを覚えています。主体は計画経済ではあったけれど、私が生まれた1978年頃から少しずつ市場経済化が始まっていました。
2001年、23歳の時に毎日新聞社が運営している毎日育英会の奨学金制度を利用して、来日しました。新聞配達をしながら2年間、語学学校に通うことになります。新聞配達の仕事は辛かったですが、中国ではラジオでしか聴けなかった音源をCDで買えたり、いろいろな本を買ったり、好みのものがすぐに手に入る生活は刺激があってとても楽しかったです。
日本語はゼロベースでのスタートだったので大変でした。語学学校のクラスメートの中には、高校で日本語を学んでいた人も多く、なかなか追いつけませんでした。それだけでなく、クラスメートはコンビニなど日本人と接するアルバイトをしていたけれど、私は新聞配達だったので人と接することがありません。そんなハンデもありましたが、幸か不幸か、残り半年というところで事故に遭い新聞配達ができなくなってしまいました。その事故のおかげで、勉強に集中することができ、半年で急激に日本語力が伸びました。
来日して2年後、早稲田大学の商学部に入学します。早稲田大学を選んだのは中国で有名だったこともありますが、私自身も一番行きたい大学だったからです。留学生では珍しかったようですが、商学部と教育学部を併願して受験しました。
早稲田大学での学生生活はとても楽しかったです。大学には海外留学生もたくさんいましたが、なるべく外国人とばかり交流しないように気をつけていました。料理屋さんや中国語の講師など、アルバイトもたくさんしました。バイト先の人たちとの交流はとても勉強になりましたし、多様な世代の多様な価値観の人がいて、いろいろなことを教わりました。新聞配達時代とは違い、日本人との交流が多く楽しかったせいか、アルバイトをしすぎたのが反省点です(笑)。大学時代は、半分はアルバイト、半分は勉強という生活でした。今さらながら、もっと勉強しておけばよかったと思います。
就職活動を始めて一番驚いたことは、日本の社会にはルールが多いということでした。ワイシャツの色まで決まっていてびっくりしたことを覚えています。良い悪いという意味ではなく、単純に、なぜそんなことまでルール化しているのかが不思議でした。
就職活動は大変でしたね。「数打てば当たる」ではありませんが、とにかく興味のある企業30〜40社くらいに履歴書を送りました。業種は一つに絞らず、メーカー、金融業界、不動産業界、人材業界などさまざまです。先輩から「業界のトップの企業で経験を積んだほうがいい」とアドバイスを受けたこともあり、各業界のトップ企業はだいたい応募をして押さえていました。
最初の頃は自己分析など、面接対策をしっかりしていましたが、受けているうちにだんだんと慣れてきました。そのなかで、面接官やリクルーターなど、素晴らしい人たちにも出会えました。東海地方の自動車メーカーや、近畿地方の通信業界の採用者は魅力的な方で、ありがたいことに「一緒に働きたい」と言ってくれました。面接に行くための旅費も企業が出してくれたので、タダで名古屋や大阪に行けたことも楽しい思い出です。何よりも必要としてくれている感じがして本当にうれしく思いました。
結果的に、4社から内定をもらいました。そのなかの一つである大手の消費財メーカーに決めた理由は、東京で働きたかったことと、グローバルという視点からこのメーカーがいいのではないかと、先輩からアドバイスをされたからです。
入社後、1年目からブランド商品のマーケティングを任されました。この会社で印象に残っているのは、台湾、香港、タイ、マレーシア、シンガポールなど、東南アジアに向けた家庭用洗剤のマーケティングを担当したことです。現地に行き、消費者調査をして、それらの国々ではどんな商品を作り、その商品をどうマーケティングするのか計画を立てます。一般の方の自宅を訪問し、実際に家に入ってどのように掃除をしているのかなどを調査しました。なかなかできない経験です。
国によって「きれい」と「汚い」の判断基準は違います。例えば、タイの家は床がタイル張りで、その上を素足で歩くのが一般的。それほど汚れることはないのですが、タイの人たちはよく洗剤でタイルを磨きます。汚れたからというよりも、素足のすべり具合やすべすべしている感触など、情緒価値を重要視していることからの洗剤の使い方です。これは中国にも日本もない、おもしろい視点だと思いました。
仕事は楽しかったのですが、人間関係は難しかったですね。私は中国の大学を卒業してから日本の大学で学び、その後に就職しているので、同期とは年齢差がありました。入社当時、私は28歳。新卒の同期は22歳で、その頃の6歳差はすごく大きかった。年齢が上だからなんとなく頼られるけど先輩ではありません。逆に先輩の中には同じ年齢の人もいます。これくらいできるだろうという感じで仕事を教えてくれない冷たい先輩がいたのも事実です。後半は海外関連の仕事になったので気にならなくなりましたが、最初の3年は年齢的なことで苦労しました。
また、どんなに頑張っても歴史ある日本の企業には年功序列があり、そう簡単に昇進することはできません。もっと責任のある仕事を任せてほしくても、まだ経験が浅いからダメだと言われることもありました。その反面、昇進すると住宅手当などが減ることもあります。そういった給与システムや年功序列的な風土に違和感がありました。
当時から外国人の友人で外資系企業に転職する人が多く、よく話を聞いていました。成果主義で頑張れば給料は上がるし、ルールもなく裁量があると。私は英語が得意ではありませんでしたが、外資系企業に転職すること目標にしました。
転職活動は、リクルートなどの人材紹介会社を経由してエントリーする方法で行いました。ただ、自己分析が足りなかったのか、面接もよくわかないまま終わってしまうことが多く、転職するのに1年もかかってしまいました。ようやくペットフードやお菓子の輸入・販売を行っている外資系企業に再就職することができ、ここでもマーケティングの部署に配属されます。
外資系企業と日本企業は、組織の考え方も仕事の進め方も人もカルチャーもルールもまったく異なります。どちらにも身を置いたことで、それぞれの良い点、悪い点がよくわかり、私自身の視野が広がったように思います。その一方で、悩みを抱えることにもなるのですが。
例えば、外資系の場合、報告義務はありますが意味のない資料作りはしません。無駄なことはせず合理的に仕事を進めています。任された仕事に口出しされることもほとんどありません。
一方、日本企業は資料作りに割く時間が多すぎる印象です。残業する人も多かったけど、やっていることは資料作りだったように思います。たいていは上司を説得するための社内用資料なので、売上には直結しません。少なくとも私に見える範囲では、その先のアクションにつながっているようには感じられませんでした。
能力アップの仕方という点にも違いがあります。日本企業には上司の背中を見て学ぶという文化が根付いています。私は情緒があって日本人らしい文化だなと思っていますが、外国人にはなかなか理解することが難しいのが実情です。
一方、転職をした外資系企業では、人の能力を70個に分けて、それぞれの能力アップの具体的な方法を示した分厚い本が社員全員に配られます。これは研究成果に基づいたものです。今年はこの中の「オーナーシップ」を強化しようと決めたら、そのために必要なことがこの本の中に書かれているのです。外資系企業にはさまざまな国の人がいるので、どこの国の人でもこれを実践すれば成長するというやり方が明確になっています。
また、日本企業も外資系企業も互いに尊重し合って仕事をしていることに変わりはありませんが、尊重の仕方は異なります。日本企業にはチームワークを大切にする文化があります。しっかり役割分担が決まっているので、一つのプロジェクトを遂行するという意味でチームワークは抜群だと思います。ただ、平等に手を合わせているという印象ではありませんでした。
外資系企業の場合、仕事の成果には厳しいけど、社員同士の関係性はフラットです。年下の意見は軽視されるなどの年齢的な上下関係は一切なく、一人ひとりの意見が尊重されます。個人プレーのように見えて、むしろチームワークは感じやすい気がします。財務、マーケティング、開発など、役職や業務の壁を取っ払ったファイティングチームを作って一緒に仕事をすることも多々あります。ただ、チームの中にあまり好きではない人がいるとあっさり辞めてしまう人もいます。そういう視点でみると、日本企業は個人の好き嫌いを表に出さない人が多い。個人の気持ちよりも、全体の調和を最優先するのでチームがまとまりやすいのだと思います。
日本企業と外資系企業の両方で働くことで、私はチームワークとは何なのか、リーダーシップとは何なのか、よくわからなくなってしまいました。
そんな思いがあり、次の転職ではリーダーシップとは何なのか、チームワークに欠かせないコミュニケーションとは何なのかを学べる仕事がしたいと思いました。そして、ある財団法人に入団し、人事部に所属されました。人材のコンピテンスの研究をしました。具体的にいうと、グローバルなリーダーシップ度合をはかるためのテスト作りです。
同財団に入団してわかったことは、リーダーになるためにはいくつかの要素があるということと、リーダーシップは生まれつきのものではないということです。仕事ができる人=リーダーシップがある人と思っていましたが、関係ありませんでした。完璧な人はいないし、誰にでも強みと弱みがあります。強みをいくつか合わせることで、リーダーシップを発揮できることを学びました。
コミュニケーションについても同様です。よくコミュニケーションが得意とか苦手とか言いますが、そもそもコミュニケーションとは包括的な言葉であり、一括りに得手不得手をジャッジすることに何の意味もないことに気づきました。かつて、私もコミュニケーション能力が低いといわれ悩んだこともありましたが、コミュニケーションを発揮する方法や場面は人それぞれであり、他人が勝手に人のコミュンケーション能力を判断してはいけないことを学びました。
そして4年後、次のステップに進もうと、また転職活動を始めました。財団法人での人事経験を活かし、次も人事希望で応募し内定をもらった企業があります。ただ、長年携わってきたマーケティングの仕事にも未練がありました。ちょうど40歳になった時期でもあり、どちらかに決めないといけないだろうと考えた結果、マーケティングに進むことにしました。
次に就職したのは、日系の大手食品メーカーです。この会社を希望した最大の理由は、当時の会長のリーダーシップに感銘を受けたからです。残念ながら、私が入社するのと同時に会長は退任してしまいましたが、彼のイズムは部下たちに受け継がれていました。私はこの会社で、何人かのビジネスにおける師匠に出会うことになります。
とくに直属の上司だった女性は私の人生の大転換の師匠といっても過言ではありません。執行役員を務め、マーケティングもプロ。経営の視点から人材を育て、ビジネスのやり方などすべてにおいて完璧な人でした。私は彼女の元で一切悩むことなく働くことができました。それまでに本当の意味で尊敬できるリーダーに会ったことがありませんでしたが、彼女を含め、そういった師匠の元でビジネスを学べたことが、この会社での最大の収穫です。
そして現在、私は大手ECサイト企業で働いています。長年のマーケティングの経験を踏まえると、今後ますますEコマースの需要は上がり、デジタルマーケティングがますまず重要になると考えています。そこで、中に入らないとわらないことも多いと思い、Eコマースの代表といえる、いまの企業に転職をしました。
大きな企業なのでダイバーシティーがあり、さまざまな人がいます。創立者のリーダーシップも強く、ビジネスのすべてが揃っている。理想な会社です。コロナ禍でさらに業績は伸びていますが、そもそも創立からずっと伸び続けています。目標を決めて、それに向かってみんなで頑張るけど、無駄なことはしない。それが、この会社が10年、20年と伸び続けている理由だと思っています。
日本に限らず、どこの国で働くにも、ステレオタイプな考え、バイアスを持ってはいけないと思います。日本だからこうする必要があるというケースもあるかもしれませんが、本当にそうする必要があるのかどうかはきちんと異文化を学び、自分で判断するべきです。
例えば、日本企業は残業が多いけど、必ずしもそれに習う必要はありません。きちんと自分がやるべきことをしているのであれば、堂々と定時で帰っていいと思います。ただ、どの国で働いても責任感は必要だし、ビジネスはこなせばこなすほど結果がでる、というのが私の考えです。会社の勤務時間やその対価だけを考えないで、成長するならどのように自分の時間を配分し成果を出していくのかを工夫すると良いと思います。
そして、我々外国人労働者は日本にいい刺激を与える責任があると思っています。私は常にそれを意識して仕事をしています。私は、2020年に法政大学大学院のMBAを卒業しましたが、最初の授業で教授にこう言われました。
「君たちは恵まれているよ。だって、暇でしょう? 暇でなければ200万円も払って、ここにはこない。世の中には時間がないとかお金がないとか、あなたたちよりも条件が悪い人はたくさんいます。あなたたちは、社会に貢献して頑張らなくてはおかしい、不公平です」と。確かにそうだと思いました。中国には山ほど日本に来たい人がいるのに、来られない人は多い。自分が恵まれていることを認識し、それを自分の責任に変えて、自分のためだけでなく、人のため、社会のために行動しなければいけません。私自身も日中の架け橋になれるよう、多くの日本企業のグローバル化の役に立つ活動、刺激になる活動を行っていきたいと考えています。